”異なる思想は抹殺せよ!” 日本人の狭量
2007-02-10


東国原宮崎知事 副知事選びで難局…持永氏が舞台裏明かす
2月10日9時45分配信 毎日新聞
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「日本人」に正しい政治感覚や、正常な理念を持つ人は少ないのですね。


…これは「副知事に持永氏を起用するのは反対」という人々の事です。

日本人は、本質的に精神がひ弱すぎると思います。

「勝者」が「弱者」に対して寛容なのは、本来、勝者としての義務です。
とはいえ、寛容と甘えは異なるものであって、「寛容になる」ためには「寛容になっても負けない」だけの十分な対応をしていることが必要です。

「寛容であり、それでいて勝ち続ける」
この強さこそが、勝者に求められる強さです。

ところが、今の日本人には、これだけの強さ(言い換えればゆとり)というものは、もっていない人が多すぎます。

現在、ほとんどの場所で、日本人の勝者が行うのは”殲滅戦”
負けた人が二度と立ち上げれないように、完全に殲滅することに躍起になっています。

殲滅戦は、「弱者」が偶然勝利した時、「いずれ自分がまた弱者になる」という恐怖心から行われるものです。
殲滅戦を行う限り、その勝者は「弱者の意識」(敗北の恐怖)から逃れられていない、卑小な存在でしかありません。

そもそも、民主主義の本質からいえば、その基本は、相手を打ち負かすことではなく、様々な相手との対話の中からよりよい意見を構築する事がその目的です。
特に「議会」や「政治」とは、本来「話あう」場であって「異なる意見を抹殺する」場ではなかったはずです。
その考え方によれば「対立候補の意見ほど一番耳を傾けなければならない」はずです。

宮崎知事選挙についても
全得票集60万のうち、東国原知事 26.6万、持永さん 12万
と、東国原知事は全体の45%しかとっておらず、持永さんでさえ20%の支持があるという事実が先にあります。

自分の約半分の人間が支持している人、県民の2割が支持している意見。
しかも、自分と対立する意見の持ち主。

これらの事実を「無視」するという事は、本来あってはならない事です。

身近な、自分と同一の意見だけを、正しいとし、異なる意見の持ち主(その代表)を封殺するというのは「思想統一」以外のなにものでもありません。

にもかかわらず、多くの人は「他の意見を取り入れようとする」知事を、大きく非難する。

…政治の基本原則すら無視する行為としかいえません。

日本人は「国民が全員同じ意識」「日本は大いなる思想統一」という、
「日本=村」的な民族意識を持ちすぎだと思います。

異質なものを受け入れられない、島国の閉鎖的意識、これが今の日本の患部そのものなのかもしれません。
太平洋戦争も「時の軍部」というよりも、この「同じ思想で無いものは許さない」という狭量な民族性が招いたものなのでしょう。
また、今の”いじめ”論議も、「同じモノ以外認めない」という本質が、その根源部分にあると思うのですが、どうでしょうか?

「自分たちと同じ意見しか認めない」「異なる勢力の意見を聞くことは許さない」

それが民主主義として正しい事なのか。宮崎県民だけでなく、この話を聞いた多くの国民が考えなくてはいけないことではないでしょうか。


「弱者の意識」、「全体が同じ思想でなければ安心できない」精神の弱さ、一人で立つことができないひ弱な民族である限り、日本人が衰退していくのは仕方がないことなのかもしれません。
[社会]

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