「人を愛さない」契約は可能なのか? 新たな「親子」の可能性と問題点 2/2
2008-12-14


夫婦以外の精子・卵子使った体外受精容認へ…生殖医学会方針
12月13日14時47分配信 読売新聞
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表題に書いた事が、私が今疑問に思っているすべて。
というか「そんな事、不可能」というのが自分の中での結論なのだけどね。

「愛さないように努力する」事はできても、「絶対に愛さない」と確約する事なんて、誰にもできないと思う。
 人の内心(感情)を契約やその他の方法で強制する事なんて不可能だし、それは「人の意思」に対する冒涜だと思ってる。

さて、なんでこんな事を書いているかといえば、これが今回の「体外受精容認論」などで置き去りにされている「親子としての意識・愛情」の問題だから。


まず、「親子」としての愛情はどこから生まれてくるのだろうか?

1.「妊娠し十月十日腹の中で育てたから生まれる」 (胎児育成中)
2.「愛した人の子だから、自分も親子として愛せる」(夫婦間の愛情より派生)
3.「『親子』として共同生活を送っているうち」  (共同体としての実態)
4.「血縁関係があるから、親子として愛せる」   (遺伝子関係)

大まかに言えば、上の4パターンおよびこれらの複合パターンが主だろう。
「通常」は4つすべてを持っていると言ってもいいだろう。
※ ただし3は『生まれてから』の時間経過後に醸成されるもののため、今回の「出産」とは関係無い部分ではある。

……ちなみに、こう書くと「4つとも持っていない場合は、通常でない」というのか、とお叱りを受けそうだが「通常(自然)の形態ではない」のは事実だろう。人工的に擬制された「親子関係」である事は否定できないと思う、申し訳ないが。


さて本論に戻るが
1.について言えば、旧来からの「実子論」(実際に言えば1と4の複合)だし
2.について言えば、旧来で言えば『連れ子に対する親子関係論』(2と3の複合)
3.について言えば、旧来からの「養親子・里親子関係」
4.のみを特化した考えが、近年出始めた「代理出産論」の根底意識
といえる。(実際には、もうちょっと複合するだろうが)

 で、今回の体外受精論は「カテゴリー上どこに属するか」といえば、おそらく1と2・(後将来的に3)の複合的意識になるだろう。本来「自分の子で無いが愛せる」という理論だけで行けば2と3だけなのだが、ここに「自分が出産したい」という意識が加味されているからだ。
 「自分が出産したい」という事は、単に「出産に興味がある」というだけでなく「胎児育成・出産によって、親子としての愛情や意識を持つ事ができる」という感情・思考がそこにはあると思う。
……というか、無かったら『自分の子でない「出産」』を望む理由が見つからないのだが。

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で問題なのは、実はこの考え方が「代理出産」とほぼ正反対に位置する関係になっている事。

 代理出産の場合「愛する人でもなく」「自分の遺伝子でもない」ただ「自分が妊娠し出産する」という事実だけがそこにはある。
 今、「代理出産に親子関係は無い」という意見が多く見られるが、ここで「1」の意識を持つのが「正当だ」というのであれば、「代理母が受胎した子供に愛情を持つ事」も「正当」でなければおかしい。
 したがって「代理出産でも親子の愛情は成立する」という前提になる。

 「契約によって『親子関係を行使しない』」と定める事は可能かもしれないが、「親子としての愛を持つな」という事は定められない。これが表題に繋がる話になるのだ。
 この時、「契約違反を覚悟の上」で「親子としての関係を求めた」としても、その代理母を「間違っている」と否定できるだろうか?

 法律上・契約上間違っているとしても「人として」は間違っていない。
 私はそのように考える。


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